福岡都市圏とは 圏域の概況

  • 1. 自然的、地理的条件
  • 2. 歴史的特性
  • 3. 周辺領域との関係
  • 4. 西日本・アジア地域との関係

2.歴史的特性

本圏域は、朝鮮半島や中国大陸に近接しているという地の利に恵まれ、古来から、大陸文化の窓口として開けていました。

日本最古の二重環濠集落であり、稲作発祥の地として有名な福岡市の板付遺跡をはじめ、筑紫地域の須玖岡本遺跡、糸島市の平原遺跡など、大陸との深いつながりを表す遺跡が分布していることや、「漢委奴国王」と刻まれた金印が福岡市の志賀島で発見されたことなどから、「魏志倭人伝」に記されている「奴国」「伊都国」は、圏域内にあったと考えられています。

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国宝 金印「漢委奴国王」
(福岡市博物館所蔵)

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政庁跡(太宰府市)

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沖ノ島(宗像市)

大和政権の成立後は、対外交流の拠点として大宰府政庁が置かれるとともに、外交使節を応接する迎賓館や客館として鴻臚館が置かれました。

また、宗像大社沖津宮がある沖ノ島は古代祭祀物が多数出土し、「海の正倉院」と呼ばれるなど、大陸との交流に大きな役割を果たしていたことがうかがえます。

平安時代後期以降、鴻臚館での官貿易に取って代わり、博多綱首と呼ばれる中国(宋)商人や平家などによる私貿易が盛んとなり、貿易港として博多が栄えるようになりました。

鎌倉時代には2度に及ぶ蒙古襲来により博多の地が戦場となりましたが、大陸との貿易は続き、戦国時代には貿易利権等をめぐって有力戦国大名間による博多の争奪戦が繰り広げられました。

その後、日明貿易の拠点が博多となったことから博多商人の力が強まり、戦国時代末期には堺(大阪府)と並ぶ一大貿易地、自治都市として著しく繁栄しました。しかし、江戸時代に入ると鎖国により長年に渡る交流基地としての役割を終え、黒田藩52万石の支配下に置かれました。

明治時代以降、鉄道など交通機関の整備や九州帝国大学の開校等により、九州において重要な位置を占めるようになりましたが、特に戦時体制下、行政機能の集中や軍事的側面からの機能強化は、後の圏域の発展の基礎をなすものとなりました。

戦後の高度経済成長期には、行政機能等の集中を背景に、九州を管轄区域とする全国企業の支社・支店等の立地が進展するなど、経済、情報などの高次都市機能の集積が進みました。特に、山陽新幹線の博多駅乗り入れ、九州縦貫自動車道・横断自動車道の開通や博多港・福岡空港等広域交流基盤の整備は、九州のみならず西日本の中枢圏域としての飛躍的発展を支える基礎となりました。 これら都市機能の集積とともに、人口・産業が福岡市以外の地域へも広がりをみせるなど、圏域全体の発展へとつながっています。