福岡都市圏とは 圏域の概況
1. 自然的、地理的条件
福岡都市圏は、面積約1,172k㎡、九州の北部に位置し、海を隔て、朝鮮半島、中国大陸に臨んでいます。釜山とは約200km圏、ソウル、大阪とは約500km圏、上海や大連、東京とは約1,000km圏と、我が国の中でもアジアに近い地域です。
地形的には北に玄界灘、南は福岡平野を囲むように、脊振山地、三郡山地がひかえ、東には宗像平野、西には糸島平野が広がり、ほぼ半月型をしています。
圏域の山々はなだらかで、その標高はほとんどが1,000m以下です。また、玄界灘、博多湾に注ぐ河川は多くありますが、いずれも中小の河川となっています。
2.歴史的特性
福岡都市圏は、古くから大陸文化の窓口であり、日本最古の稲作発祥地として有名な福岡市の板付遺跡をはじめ、筑紫地域の須玖岡本遺跡、糸島市の平原遺跡など、大陸との深いつながりを表す遺跡が分布していることや、「漢委奴国王」と刻まれた金印が福岡市の志賀島で発見されたことなどから、「魏志倭人伝」に記された「奴国」「伊都国」は圏域内にあったと考えられています。
大和政権の成立後は、対外交流の拠点として那津官家、次いで大宰府政庁、外交使節の迎賓館である鴻臚館が置かれ、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群として世界遺産にも登録された、宗像大社沖津宮がある沖ノ島は、古代祭祀遺物が多数出土し、「海の正倉院」と呼ばれるなど、大陸との交流に大きな役割を果たしたことがうかがえます。
平安時代後期以降、博多綱首と呼ばれる中国(宋)商人による私貿易が盛んとなり、貿易港として博多が栄えました。博多は、鎌倉時代の2度の蒙古襲来後も大陸との貿易が続き、日明貿易の拠点ともなり、戦国時代末期には堺(大阪府)と並ぶ一大貿易地、自治都市として著しく繁栄しました。
明治時代以降、中央官庁の出先機関や帝国大学の誘致をはじめ、鉄道など交通機関の整備等により、九州で重要な位置を占めるようになり、特に、戦時体制下での行政機能の集中や軍事機能の強化は、後の圏域の発展の基礎となりました。
戦後の高度経済成長期には、行政機能等の集中と経済、情報などの高次都市機能の集積がさらに進み、現在、福岡都市圏は九州の中心都市圏域となっています。
時代は、元号が太宰府市ゆかりの令和となり、福岡都市圏域が誇る歴史や文化を受け継ぎながら、これからもますます発展していくことが期待されます。
3.周辺圏域との関係性
福岡都市圏では、行政、経済などの高次都市機能の集積や公共交通機関の整備により、社会生活圏は拡大し、隣接する北九州都市圏、筑豊地域、筑後地域、そして佐賀県など、周辺地域との関わりは強くなり、産業振興や観光交流など、一帯の発展につながっています。
一方、水資源の確保をはじめ本都市圏が抱える課題に対応するため、圏域を越えた他地域との連携が必要であり、水源地域や筑後川流域との地域間交流を進め、相互理解に努めるとともに、他圏域や他都市との交流等を進めています。
また、新幹線・鉄道網、高速道路網などの広域交通ネットワークの着実な広がりにより、本都市圏を中心とした九州・山口圏域は1,400万人の大きなマーケットを有し、平成23年(2011年)の九州新幹線全線開通で、ますます結び付きは強まっています。
さらに、空港・港湾などの国際交通拠点機能の強化による航空路線、航路の充実により、アジアを中心に、多くの人・モノが海外と往来しており、今後一層、九州・アジアのゲートウェイとしての役割を果たすことが期待されています。
4.数字でみる都市圏のすがた
福岡都市圏10市7町のデータ集を作成しました。
100の指標により、いろいろな角度から福岡都市圏10市7町を比較することが可能です。